『王宮から裁判所、そして牢獄へ』
数奇な運命を辿ったコンシェルジュリー。
その歴史を知っているせいか一歩足を踏み入れると、「もうここから出られないじゃないか」と思ってしまうほど、閉鎖的なものを感じます。
それでも入ってすぐにある「衛兵の間」は滑らかで重厚なアーチが連なり、美しい空間でした。

ここは、マリー・アントワネットが最期の日々を過ごした場所でもあります。
私はどうしても、名前の部屋(Salle des Noms)で彼女の名前を探したくてここまで来たのですが、思った以上に部屋が狭く、名前のプレート小さい上にぎっしりと敷き込まれていて「ここから探し出せるのだろうか」と途方に暮れました。

兎にも角にも、M、M、M……
「Marie-Antoinette」を探すのですが、ありません。
ここまで来たのに見つけられないのかもしれないと思うと、悲しくて、残念で、涙が出そうでした。
彼女は最後、「Capet Marie-Antoinette(カペー・マリーアントワネット)」として記録されていたため、「M」ではなく「C」の欄で探さなければならなかったのです。
部屋の中央には検索端末があり、「Marie-Antoinette」と入力すると、「Capet Marie-Antoinette」と表示される仕組みになっていました。

落ち着いて考えれば分かったはずなのに、自分のポンコツぶりにがっかり。
フランス革命政府は王族の称号を認めず、ルイ16世を「ルイ・カペー」と呼んでいました。
そのため、彼女もまた王妃ではなく、「カペー家の一員」として記録されていたのです。
何はともあれ、ようやくその名前を見つけた瞬間は、嬉しさと安堵で胸がいっぱいになりました。
ここでマリー・アントワネットは76日間を過ごすのですが、死刑判決が言い渡された日は、あまりにも過酷な一日でした。
判決後独房へ戻ると、義妹エリザベートへ最期の手紙を書き残します。
その後、黒い喪服を脱ぐよう命じられ、衛兵たちの前で白い服へ着替えさせられました。
この頃は病による出血にも苦しんでいたようで、着替えの際には汚れた下着を壁の隙間に隠したともいわれています。
さらに、ギロチンの刃の邪魔にならないよう髪を短く切られ、両腕は後ろ手に縛られました。
当時の女性にとって髪を短く切られることは、今でいう丸刈りにされるほど屈辱的なことだったそうです。
そして荷車に乗せられ、群衆の冷たい視線と罵声を浴びながら、見せ物のようにゆっくりとパリの街を進んだのです。

栄華と転落がこれほどまでに激しい人生を送った女性を、私は他に知りません。
でも、だからこそ200年以上経った今も、彼女は色濃く人々の記憶に残り続けているのだと思います。

過ごしていた独房は、以前訪れた時には再現展示がありましたが現在はモニュメントへと姿を変えていました。
どうしてなくなっちゃったんだろ?
私は以前の展示の方が、「王妃の最期」をより現実のものとして感じられたように思います。(ちょっとチープな作りだったけど🤫)
入り口で貸し出されるタブレットで、再現された部屋を見ることもできますが、ここはそういう場所ではないんです😑

狭くて暗い部屋。
夜になっても灯りを与えられなかったようですが、ひとつだけ窓が残されていました。

当時のままだと思われる鉄格子と中庭。
この中庭は女囚人たちが唯一散歩で出られる場所で、洗濯をしたり、時には会話を楽しむことができたそう。
マリー・アントワネットも、この鉄格子越しに外を眺めることがあったのではないでしょうか。
彼女の処刑後、ロベスピエールをはじめ、彼女の裁判に関わった人々も次々とギロチンへ送られていきました。
「革命は子を喰らう」という言葉がありますが、この場所はまさに恐怖政治の渦中にありました。
オーストリアとフランス、二つの国を結ぶために嫁いだ14歳のお姫様。
こんな形で人生を終えることになるなんて、誰も思いもしなかったはずです。
……いや、もしかしたら?
あれだけ娘を心配して手紙を書き続けていたお母さんだけは、そんな未来をどこかで案じていたのかもしれないな、と。
